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琉球ゴールデンキングス

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22歳だった僕が、30歳になった #24 田代直希<上>

 22歳だった僕が、30歳になった。

 2016年に琉球ゴールデンキングスでプロデビューしてから、ありがたいことにずっとキングスに所属させてもらっている。「ベテラン」と言われることも増えてきた。小学校6年生が二十歳の大人になる年月である。当然、僕も様々な経験をしてきた。
 
 一人の選手として、プロの世界で生き残るためのプレースタイルを確立してきたこと。バスケ人生で初めてキャプテンに就任し、自分なりのリーダーシップを模索したこと。度重なる怪我を通して、人生観そのものが変わったこと。「すごく遠い所」だった沖縄が、「帰りたい」と思う場所になったこと。

 我ながら、沖縄で過ごした8年間は自分自身に多くの変化をもたらした期間だったと感じる。而立(じりつ)の年となった今、振り返ってみる。

大学の頃はまだBリーグもなく、「プロになりたい」という気持ちは皆無だった

 キングスに入る前の話から始める。

 千葉県出身の僕が初めて沖縄の地を踏んだのは、高校生の頃の修学旅行だった。読谷村のチビチリガマや糸満市の平和祈念資料館を訪れ、教科書で見るような歴史の中の出来事を身近に感じたことを覚えている。琉球村や首里城、美ら海水族館という観光地も行った。まだ冬場の2月くらいだったのにとても暑くて、海が綺麗だった。

 もう一つ、沖縄との絡みで記憶にあるのは専修大学の頃の出来事だ。一つ下の後輩だった沖縄出身の渡辺竜之佑(福井ブローウィンズ)が、bjリーグ2013-14シーズンファイナルのキングス対秋田ノーザンハピネッツをテレビで観ていて、僕も一緒に観ながら秋田に所属していた先輩を応援していた。その試合で隆一(#14 岸本隆一選手)が爆発していて、「岸本ドリブルすげえ」とか、「並里(群馬クレインサンダーズ #16 並里成選手)うめえ」とか、そういう印象だった。

 少し軽い感想に聞こえるかもしれないが、プロの世界はそのくらい“自分ごと”ではなかった。当時はまだBリーグもなくて、今のように日本でバスケが盛り上がっていたわけでもない。NBLは本当に一握りの選手しか入れなかったし、bjリーグも「バスケで生活を成り立たせる」というイメージは持てなかった。

 専修大学も関東一部の強豪ではあったけど、卒業後も一線で続けようとする選手は少なく、僕も「プロになりたい」という気持ちは皆無だった。小さい頃に母が「Backstreet Boys」の曲を車内で聴いていたり、千葉にあったコストコのアメリカンな雰囲気が好きだったりしたこともあって、漠然と大学が終わったらアメリカに留学しようかな、とか考えていた。

ニュートンの「#50」永久欠番セレモニーの日の試合を見て「ここでやりたい」と思った

 そんな僕に、初めにキングスからアプローチがあったのは大学4年の秋季リーグの時だった。

 当時、専修大学は快進撃の真っ只中にいて、僕もエースとして点を取る役割を担っていた。しかし東海大学の体育館であった首位の拓殖大学戦で、試合開始5分くらいで右足を負傷してしまった。翌日病院に行って、MRIを撮ったら前十字靭帯を断裂していた。同行したトレーナーと一緒に病院でしょんぼりしていたら、中原雄ヘッドコーチ(現:福井ブローウィンズ アシスタントコーチ)から電話が掛かってきた。

 「沖縄の社長さんが田代に興味あると言うとるで」

 キングスの木村達郎社長(当時)が竜之佑を視察するために拓殖大戦に来ていて、中原さんとの会話で「田代君はどこに決まったんですか?」と僕のことを話題に挙げたそうだ。

 「どこも決まってないです」(中原さん)
 「じゃあ声掛けていいですか?」(木村さん)
 「ぜひぜひ」(中原さん)

 そんな話の流れだったらしい。中原さんから電話があった時は「いや、(靭帯)切れとるで」と返そうとしたが、心の中で留め、ひとまず返事は保留にさせてもらった。正直、予想外の大怪我でそれどころじゃなかった。

 その後、保存治療をしながらインカレ(全日本大学選手権大会)までプレーを続けた。その間も木村さんと中原さんはやり取りを続けていて、その年の11月上旬に中原さんと一緒に沖縄に行くことになった。当時は専修大学OBのむーさん(現:福井ブローウィンズ 伊佐勉ヘッドコーチ)がキングスのHCだったこともあり、「一度キングスの試合を観に来てよ」と誘われたみたいだ。

 沖縄市体育館に行くと、その日はジェフ・ニュートンの「#50」永久欠番セレモニーがある日だった。

 相手はライジングゼファーフクオカ。僕はテーブルオフィシャルとは反対側の一階席で試合を観ていた。会場は満員で、指笛が鳴り響き、ものすごい熱量だった。カラフルなライトに照らされた演出も新鮮だった。バスケの試合会場が満員になるところなんて見たことがなかったし、演出も衝撃だった。

 「ここでやってみたい」

 純粋にそう思った。木村さんから沖縄アリーナを作る構想も聞き、夢があると感じた。試合の後、中原さんと食事に行き、初めてオリオンビールを飲んだ。それが美味しかった。僕は、キングスに入ることを決めた。

プロに「生きたスキル」を教わった。3年目のアルバルク東京戦で自信が持てた

 入団したのはBリーグが開幕した2016年。チームに合流する前に怪我の手術をして、1年目は身体が全然思い通りに動かなくて悶々としていた。

 それに隆一やアンソニー・マクヘンリー、喜多川修平さん(越谷アルファーズ)らがいて、僕が大学の頃までやっていたような点を取る役割の人はたくさんいた。プロはいろんなフォーメーションやルールをしっかりと理解し、それを優先させないと生きていけない。だから、リバウンドやディフェンスの部分でチームに貢献することにフォーカスを向けていった。

 2年目以降も、チームメイトにとても恵まれた。須田侑太郎(名古屋ダイヤモンドドルフィンズ)や橋本竜馬さん(アルバルク東京)からはディフェンスの激しさ、古川孝敏さん(秋田ノーザンハピネッツ)からはプレーを徹底するメンタル面、ザキさん(元琉球ゴールデンキングス 石崎巧さん)にはピック&ロールの使い方とかバスケの技術を学んだ。現役のプロ選手から生きたスキルを教わり、プレーの幅が広がった。

 3年目の2018-19シーズンは転機になった。特にチャンピオンシップの準決勝、沖縄市体育館であったアルバルク東京(A東京)戦が大きかった。逆転勝ちした2戦目で馬場雄大(長崎ヴェルカ)や田中大貴(サンロッカーズ渋谷)という日本のトッププレーヤーたちとマッチアップし、二人を一桁得点に抑えることに貢献できた。シリーズは1勝2敗で敗退し、このシーズンはA東京が優勝したが、自分のディフェンスに自信を持つことができた。「それくらいの水準に自分はいる」と。年々、キングスの中での自分の役割が固まっていった。

バスケ人生で初めてのキャプテン。一回飛び込んでみようと思った

 2019-20シーズンは、ヘッドコーチだった佐々さん(現:宇都宮ブレックス 佐々宜央ヘッドコーチ)から「キャプテンをやらないか」と言われ、初めは丁重にお断りした。バスケを初めてから一度もキャプテンをやったことがなく、「他の人がやった方がいいです」と。

 でも、その後にまた佐々さんと木村さんに呼ばれて、「こういう役職をすることで、田代に足りないリーダーシップが身に付くと思う。人生観を含め、成長に繋がるはず」という感じで説得された。

 確かに、当時の自分には「自分さえ良ければいい」という節があった。喋らない人とは喋らないし、興味がないものには全く興味がない。少し偏った人生観だった。そのあたりを見透かされていたんだと思う。

 その話を受け、「やってもいないのに、そこまで毛嫌いする必要もないな」と感じた。ここまで言ってくれているんだし、一回飛び込んでみようと。当時は25〜26歳で、今の牧(#88 牧隼利選手)くらいの年齢だった。

 僕の前は隆一、その前はシゲさん(キングス「#6」永久欠番 金城茂之さん)で、沖縄出身じゃない選手がキャプテンをやるのはキングスにとって久しぶりだった。でも、日越さん(日越延利さん・沖縄県バスケットボール協会会長)や屋嘉さん(屋嘉謙呉さん・バスケ専門店「ステップバイステップ」店長)といった沖縄のバスケ関係者の人たちに「自分でいいんですかね?」と言ったら、「全然いいんだよ」「絶対やった方がいいよ」と受け入れてくれたことは、嬉しかった。

 初めは「もっとこうした方がいいよ」とか偉そうにチームメイトに言ったりしていたけど、シーズンが進むごとに、徐々にメンバーの顔色を見ながら気を配れるようになっていった。少しずつ視野が広がり、我ながら、精神的にだいぶ成長したように思う。

 ただキャプテンとなってから3年目の2021-22シーズン、それ以上に、僕の人生観を大きく揺るがす出来事に直面することになる。

#24 田代直希

1993年6月24日生まれ。千葉県出身。
2016-17シーズンに加入しキングス一筋8シーズン目を迎え、キャプテンとしてコート内外でチームを支える。バスケを始めたキッカケは兄たちの影響。

22歳だった僕が、30歳になった #24 田代直希<下>はこちらから

KINGS_PLAYERS_STORY
https://www.otv.co.jp/okitive/collaborator/ryukyugoldenkings/

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