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琉球ゴールデンキングス

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22歳だった僕が、30歳になった #24 田代直希<下>

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左膝の前十字靭帯断裂でとてつもない虚無感に襲われ、人生の儚さを感じた

 僕が沖縄に来てから6年目となった2021-22シーズン。その前の年に、ずっと痛みがあった左足首の手術をするために途中離脱し、リハビリに苦しんだことで体との向き合い方が変わり、このシーズンは開幕から本当に好調だった。当時は完璧主義という側面が強かったこともあり、いつもしっかり準備をして、試合に臨んでいた。

 だからこそ、全く予期できなかった。

 開幕から1カ月ほどが経ったアウェー戦。ドライブを仕掛けた際、激しく接触をしたわけでもないのに、急に左足に激痛が走って倒れ込んでしまった。左膝の前十字靭帯断裂など、全治10カ月の大怪我だった。怪我をするリスクの高いプレーは避けていたけど、全く意識の外にある初歩的な動きでの負傷だった。「こんなことで切れるんだ…」。全く理解が追い付かなかった。

 左足首の怪我から苦労してやっと復帰できたのに、また手術をする必要に迫られ、長期離脱。選手としても、キャプテンとしてもチームに貢献できない。病院にいる間、とてつもない虚無感に襲われた。怪我をした瞬間から、ずっと時間が止まっている感じだった。

 「手術はつらいし、術後のリハビリもつらい、入院ももうしたくない。もしキャリアを続けたら、またこういう経験をするかもしれない。もう辞めようかな…」

 自暴自棄になり、そんな考えも頭をよぎった。人生の儚さ、残酷さを目の当たりにして、大きな壁が立ちはだかっているのを感じた。

東京でリハビリをした4カ月間は、間違いなく人生の転機になった

 そこで取った行動は、一度バスケットボール、チーム、沖縄から物理的に距離を置くことだった。

 千葉の実家に帰り、リハビリはあえて東京の病院で行った。正直、あの頃は嘘でもバスケのことを「好き」と言える精神状態ではなかった。バスケをしたくもないし、見たくもない。そんな感情になるのは、バスケ人生で初めてのことだった。

 一方で、バスケがない生活自体も新鮮だった。学生の頃から夏休みをゆっくり過ごしたことがないほど、バスケ漬けだった。

 リハビリをした約4カ月の間は、実家から電車に揺られ、リハビリのために病院に向かう。終わったら、また電車に乗って、実家に帰る。車内には当然、出勤する人や、通学する学生さんもいる。そういう社会の中で生活をするのは、大学を卒業してから初めてのことだった。そんな日々を繰り返すうち、ふと自分に嫌気が差す瞬間があった。

 「みんなそれぞれに人生があって、みんながみんないい思いをしているわけじゃない。それぞれに苦労があって、辛い経験をした人もたくさんいるはずだ。それなのに、なんで自分だけドン底にいるような面をして、悲劇のヒーローぶっているんだろう」

 リハビリをしている内に少しずつ体が元気になってきて、メンタルが安定してきたことも影響したのかもしれない。自分の傲慢さを客観的に見られるようになり、強い気持ちを少しずつ取り戻していった。

 この時期には地元の友人と対面することも多く、「お前怪我大丈夫か?」とか「あの試合観たよ」とか言われることも多かった。みんな自分の仕事を頑張りながら、僕のプレーも見てくれていた。沖縄に移住してからなかなか会えなかったから、そういう言葉が心から嬉しかった。それは、今もプレーを続けている理由の一つだ。

 あの4カ月間は、自分にとって間違いなく人生の転機になった。

感覚が遅れてくる感じがあったけど、だいぶ戻ってきた

 リハビリの期間を通した自分自身の変化はいろいろあったけど、まず一つはキャプテンの在り方だ。チームを離れた時点でキャプテンを放棄したような状態だったけど、2021-22シーズンはキングスが当時のB1歴代最高勝率を記録して、球団史上初のBリーグファイナルに進出した。

 シーズン終盤は僕もチームに戻り、ベンチに入ったりしていたけど、僕がいるからチームが強いとか、そういうことはない。実際に僕がいなくても強かったから。むしろ難しいのは、チームの調和を取ることだと感じた。チームの状態が不安定な時に誰かが犠牲になったり、行動や発言を変えたりして、バランスを取る必要がある。

 あと、みんなが発言をしやすいような雰囲気をつくる。それぞれがリーダーシップを発揮しやすい環境であれば、チームが高いレベルで安定する。リーダーは僕だけである必要がない。それが、チームを離れてみて感じた僕なりのキャプテンシーだった。

 あと、人との接し方が根本的に変わった。

 前までは完璧主義だったせいで、何かをしている時に街中とかで声を掛けられたりすることが好きじゃなかった。でも、今は学生さんに声を掛けられたら「部活何してんの?」「頑張ってね。」とか、こっちからも話したりするようになった。

 度重なる大怪我で、全てが自分の思い通りになるわけじゃないという事を身を持って経験し、完璧主義がいい意味で崩壊した。変に自分の考えだけに縛られることがなくなり、心に余裕ができた気がする。

昨シーズンは難しい1年だったけど、今は体をだいぶ動かしやすくなってきている

 一方でプレー面に関して言えば、リハビリ明けだった昨シーズンは難しさを感じた1年だった。

 とにかく思うように体が動かない。例えば、上から物を落としてキャッチするような反射のテストがあったとして、それがうまくキャッチできない。自分の脳内で描いている動きがコンマ何秒か遅れて伝わるから、足がうまく出ない、とかのもどかしさがずっとあった。

 それによって体のバランスが悪く、いろんな箇所が痛くなった。ルーキーイヤーも同じような状態だったけど、大学卒業直後と30歳手前ではどうしてもメンタル面に違いが出るから、消極的になってしまった。チャンピオンシップの時点では心身ともにだいぶ改善してはいたけど、本当に考えさせられるシーズンだった。

 オフには自分に合う整骨院を東京とかで片っ端から当たったりして、改めて自分にとって最適な体のケア方法を模索した。前十字靭帯の断裂は、ある程度感覚が戻るまでに2年くらいかかるという統計もあるらしい。実際、今シーズンはだいぶ体の動きが戻ってきている。チームに貢献できるよう、常に準備を怠らないようにしたい。

僕たちの姿勢を見た子どもたちが沖縄のカルチャーを繋いでいってくれたら、それほど嬉しいことはない

 ここまで記したように、沖縄に住んだ8年間は本当に濃密だった。

 「すごく遠い所」だと思っていた沖縄は、今では千葉ともう一つの「帰る場所」になった。アウェー戦に行くと、「早く沖縄帰りてえ」と思うことも多々ある。修学旅行の時に初めて食べて、ラーメンに比べて味が薄く「美味しくないな」と感じた沖縄そばは、いつの間にか大好きになった。今となっては、近くのコンビニにも車で行く。我ながら、随分沖縄に馴染んだものだ。

 この間にホームアリーナが沖縄市体育館から沖縄アリーナになり、より多くの人が試合を観に来てくれるようになった。以前はキングスやバスケ自体がすごく好きな人たちが多く来場していたイメージだったけど、今はそこまでバスケに詳しくない人も来てくれるようになり、よりキングスの事が広く受け入れられてきているように感じる。これは、選手としてとても幸せなことだ。

 ここ1年くらいは、間違いなく沖縄は日本バスケの中心地だった。ただ盛り上がりに関して言えば、沖縄は以前からバスケに対する熱量があって、それが県外の人たちにも認知されただけ、という感じもする。

 沖縄のバスケ関係者の人とお酒を飲んだりしていると、当たり前のように昔のレジェンド選手の名前が出てくる。そういう県は全国でも稀だと思う。誰かの記憶の中で生き続けていて、脈々と受け継がれている。そういう土台の上にキングスができ、沖縄アリーナができた。先人たちが紡いできたカルチャーが繋がっていって、今がある。

 長嶋茂雄さんの言葉を借りれば、沖縄のバスケ熱やキングスの存在は「永久に不滅」だと思う。「沖縄の人ってバスケ好きだよね」って言われ続けられるため、自分にできることといえば、こういう環境の中でバスケットボールができていることに最大限感謝をしながら、個人として、チームとして“今”を頑張っていくしかない。そういう僕たちの姿勢を見た子どもたちが、またカルチャーを繋いでいってくれれば、それほど嬉しいことはない。

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#24 田代直希

1993年6月24日生まれ。千葉県出身。
2016-17シーズンに加入しキングス一筋8シーズン目を迎え、キャプテンとしてコート内外でチームを支える。バスケを始めたキッカケは兄たちの影響。

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