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琉球ゴールデンキングス

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キングスファンが育ててくれた僕の“ディフェンス愛” #34 小野寺祥太<上>

 29歳、11年目。高校卒業後にプロ入りしたから、もうプロ選手歴は「ベテラン」と言われる年数に入ってきた。

 僕は学生の頃、所属チームで全国大会に出場した経験がない。それでもbjリーグでデビューし、Bリーグでも一線でプレーし続けることができている。そして、昨シーズンは大きな目標だった優勝を達成することができた。本当に球団やチームメイトに恵まれていると感じる。

 ずっとポジティブな気持ちを持ってやってきたが、もちろん苦労もあった。Bリーグには自分よりサイズのある選手や、得点能力の高い選手はたくさんいる。試行錯誤を繰り返す中で、ディフェンスに自分の存在意義を見出し、今のプレースタイルに辿り着いた。

 僕は、ディフェンスが好きだ。この“ディフェンス愛”は、琉球ゴールデンキングスのファンが育ててくれたものでもある。自分のキャリアを振り返りながら、その理由も書きたい。

サイズのある外国籍選手とプレーしたくて、高校卒業後にプロへの挑戦を決めた

僕は岩手県一関市の出身。バスケを始めたのは萩荘小学校3年生の時。五つ上の兄が先にやっていて、幼稚園の時からずっとくっ付いて見に行っていたから、僕も「バスケいいな」と思ってミニバスケットボールのチームに入った。チームは県大会に出場するくらいで、そこまで強くはなかったけど、バスケにはすぐハマっていった。

 同じ地域の萩荘中学校に進み、当時はシューティングガードとして外のシュートが得意で、ジュニアオールスターのメンバーにも選ばれた。その甲斐もあって強豪の盛岡南高校に進学した。3年時にはキャプテンを務め、国体選手にも選出してもらえた。ただ、県大会では中学の時のジュニアオールスターメンバーのほとんどが入った黒沢尻工業高校にいつも決勝で敗れ、国体もミニ国体で負けてしまったから、全国を経験することは一度もなかった。

 高校の頃、簡単にダンクできるくらいの身体能力があったから、当時のプレーは本当に能力任せ。走って、レイアップして、リバウンドやルーズボールに飛び込んで。チーム内ではスコアラーの役割だった。そのあたりを評価してくれて、関東の大学からも誘いの声があったようだ。

 ただ、僕が高校生の頃に地元に岩手ビッグブルズが結成され、bjリーグに参入していた。当時のゼネラルマネージャーの方が同じ高校のOBで、「練習に参加してみる?」と声を掛けてもらっていた。大学進学と迷ったけど、当時はまだ大学にサイズのある外国籍選手が少なく、bjリーグは多かったから、「身体の大きな選手と対戦することは自分のキャリアにとってもいい経験になる」と思って、プロへの挑戦を決めた。

 高校を卒業した年の夏に練習生として岩手ビッグブルズに加入させてもらった。もちろんその時点でプロになることは確定していないから、いろいろ不安はあった。それでも半年後の12月には、選手契約を結ぶことができた。

プロ入りしてから体重を10kg増やした。じゃないと戦えなかった

 高校を卒業してすぐにプロ選手の中に入ったことで、「フィジカルが全然違う」と感じた。ドライブの力強さや、体が当たった時の強さ。一つ一つの質が全然違った。だからトレーナーをつけて筋力トレーニングに注力したり、食事も一日4食に増やしたりしてフィジカルを鍛えた。高校の時より10kgくらい体重を増やした。じゃないと、コートで戦えなかった。

 プレースタイルは高校の時と同じように身体能力を生かして走ったり、リバウンドやルーズボールでハッスルしたりすること。当時の岩手のHCは桶さん(桶谷大ヘッドコーチ)で、ディフェンスのポジショニングとかもしっかりしていたから、オフボールの守りの立ち位置とかも学んだ。基本的には、今と同じようにスタッツにあまり表れない役割をこなしていたと思う。

 ちなみに、僕はずっと東北で育ってきて関西弁の人とほとんど話したことがなかったから、初め桶さんに関西弁で怒られた時は本当に怖かった。でもその内容から、みんなに期待しているんだな、ということは伝わってきた。一言一言で選手のモチベーションを上げるのが本当に上手。今は、桶さんも空気感が柔らかくなったと思う。僕もそうだけど、いろいろ経験すると穏やかになっていくのかな。

桶さんの粋な計らいでデビューは地元の一関市。初ゴールは与那嶺翼さんのアシストだった

 初めのシュートはちゃんと覚えている。チームメートだった与那嶺翼さん(現:キングスU18ヘッドコーチ)にサイドからのスローインでボールをもらい、そのままレイアップでゴールを決めた。当時は穂坂さん(穂坂健祐アシスタントコーチ)がアシスタントコーチだった。今また同じ球団に所属していて、縁があるなと思う。

 デビュー戦はそれ以外はほとんど覚えていない。相当緊張していた。地元だから家族や友人もたくさん来ていたけど、もうそれどころじゃなかった。幸いルーキーシーズンからプレータイムをもらえて、2年目の2014-15シーズンはカンファレンスファイナルまで進むこともできた。岩手にはBリーグ開幕初年度の2016-17シーズンまで所属した。

 2017-18シーズンには当時B2だった秋田に移籍し、ヘッドコーチから「身体能力とスピードを生かしてポイントガードをやってほしい」と言われた。ただそれまでPGはやったことがなかったから、正直プレーコールや、いいディフェンダーと当たった時は難しかった。それでもチームとしては所属1年目でB2準優勝を果たし、B1に昇格することができた。

キングスは高校の頃にTシャツを買うくらい好きだった。佐々さんから電話でオファーあった時は「マジか」って

 秋田の2シーズン目は腰を痛めてしまって、なかなか思うようなプレーができず、後半戦はほとんど出場すらできなかった。シーズンが終わった後も治療に専念していた。

 「やばいな」「もう引退かな」

 今後どのくらいプレーが戻るかも分からず、ネガティブなことも頭をよぎった。そしたらオフシーズンの最後くらいの時期、自宅に一人でいたら、知らない電話番号から着信があった。電話に出て、驚いた。

 「琉球ゴールデンキングスの佐々です」

 当時はエージェントもいなかったから、キングスのHCだった佐々さん(宇都宮ブレックス佐々宜央ヘッドコーチ)から直接電話が掛かってきた。そして、「キングスに来てほしい」と。腰の状態も伝えたけど、「それでも大丈夫」と言ってくれた。そんなに大きなクラブからオファーがあると思っていなかったから、「マジか」って思ったけど、その場は冷静さを取り繕って「分かりました、考えます」と返事して、電話を切った。

 キングスはbjリーグ時代に一関市の体育館でも試合をしていて、僕も高校生の頃に会場で見ていた。選手たちの独特な雰囲気が好きで、インターネットでTシャツを買ったこともある。自分がプロデビューしてから対戦する機会もあり、個々に力があって、チームとしてもなかなか崩れないという印象があった。

 あとはなんと言っても、ファンの熱さ。有明コロシアムであったbjリーグのファイナルでのキングスファンの応援はテレビでも会場でも体感したけど、本当に熱量がすごかった。国内のバスケ観戦で、あれ程の雰囲気は見たことがなくて、びっくりした。すごいインパクトがあった。

 チームが強くて、ファンからも愛されている球団だったから、佐々さんから電話があった時は率直に嬉しかった。

 「自分が成長するために、このチームでやる意味は大きい」

 そう思い、オファーを受けた。案の定、キングスへの入団は僕のキャリアにとって大きな転換点となった。

キングスファンが育ててくれた僕の“ディフェンス愛” #34 小野寺祥太<下>はこちらから

#34 小野寺祥太

1994年11月6日生まれ。岩手県出身。
高校卒業後の2013年にプロキャリアをスタートし、2019-20シーズンにキングスに加入。キングスのディフェンスの要として、流れを引き寄せるプレーが魅力。オフは家族で過ごし、子どもと遊ぶことが趣味。

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