東日本大震災から11年を迎えて 桶谷ヘッドコーチ、与那嶺翼U18ヘッドコーチコメント
震災後にキングスの所属していたbjリーグは3チームの活動中止及びリーグ戦一時中断となりました。震災当時のキングスで指揮をとり、後に岩手ビッグブルズにて3シーズン、仙台89ERSにて2シーズン指揮をとった桶谷ヘッドコーチ。そして、同じく震災当時、キングスのキャプテンを務め、岩手ビッグブルズで2シーズンプレーし、その後1シーズンをアシスタントコーチ兼アカデミーコーチとして活動した与那嶺翼キングスU18ヘッドコーチ。東北でプロとして活動経験を持つ2人のコメントをご紹介します。
桶谷ヘッドコーチ コメント
―――当時の状況と心境
震災が起きた時、浜松・東三河フェニックス(現 三遠ネオフェニックス)とのアウェー戦のために移動をしている飛行機の中でした。空港に到着して、そこのテレビに映し出されている映像を見て震災が起きたことを初めて知りました。その時も、最初は「普通ではないことが起きている」ということしかわからず、徐々に「大きな地震が起きて本当に大変なことになっている」と理解して行ったのを覚えています。試合も中止になり、チームは翌日すぐ沖縄に戻り、その後bjリーグの3チームが活動中止、リーグ戦も中断となりました。
リーグ戦が再開に向け動いていたものの、毎日のように木村さん(代表取締役社長)と「日本がこのような未曾有の危機に直面している状況で、我々は本当にバスケットボールをしていていいのだろうか」と、正しい答えのない会話をしていたのを覚えています。最終的には、こういう状況でプロスポーツチームの本当の存在意義はなんなのかと考えた際に”スポーツの力で少しでも多くの人へ希望を届けること”、それができるのであれば、「我々はバスケットボールをやらなければいけない」という結論に達しました。もちろん選手もスタッフもこの状況でプレーするという選択をすることは本当に難しかったと思います。
―――仙台89ERSから志村雄彦選手(現 仙台89ERS社長)がキングスに特別加入
活動中止となった仙台89ERSから志村選手が特別加入でキングスの一員としてプレーすることになり、チームに合流した際に、現地の事や状況を選手やスタッフに話をしてくれました。彼の言葉を聞いて、自分に何ができるのだろうと考えさせられていた時、志村選手が「忘れないでください」ということを言っていて、その言葉は今でも自分の心に残っています。
―――自分にできる事を求めて岩手ビッグブルズへ
2011-12シーズンにキングスで優勝、そしてそのオフにキングスとの契約を終え、自分自身まだ若く優勝直後でもあり、モチベーションをどこに持っていこうか迷っている時期がありました。そんな中、契約終了のリリースが発表された直後に岩手ビッグブルズから「優勝ヘッドコーチとして岩手に力を貸して欲しい」と連絡がありました。震災があった後から、中古も含めてバスケットボールシューズをかき集めて被災地にいる子どもたちに送る活動はしていました。ただ、岩手からのオファーがあり改めて「自分が今持っている力で岩手のために何かできるのであれば」という思いから、その他クラブからのオファーをお断りして岩手ビッグブルズで活動する事を決めました。
岩手に行った時に最初に連れて行ってもらったのが被害の大きかった沿岸部でした。中心部から沿岸部に行くのも困難で、そして復旧が始まっているのかわからないほど震災の爪痕も残っていましたし、思っている数十倍復旧作業が困難な事であると痛感したのを覚えています。
―――現地の方との交流で改めて感じたスポーツの力
岩手時代に、被災した学校に行きクリニックや交流イベントなどを行なっていた時に、「岩手ビッグブルズは地域の人たちのために頑張っているし、岩手ビッグブルズには入れるかわからないけど僕も地域の人のために頑張りたい」と言ってくれた男子生徒がいて、その子が数年後にその沿岸地域で消防士として地域を支えていると聞きました。
その他にも多くの方と話をして、「岩手ビッグブルズをみて元気になった、前向きになれた」とおっしゃってくださる方が大勢いて、全ての人ではないですがスポーツの力で希望を届けることができるといことを実感できました。そして、これこそがプロスポーツチームで活動する我々の存在意義だと今でも思っています。そういう思いを常に持ち続けていて、東北にある仙台89ERSでの活動を決めたのもそういった思いで決断しました。
―――今の自分の芯となる思い
プロスポーツチームとして成績を残すことは大事だと思います。ただ、強ければいい、自分達だけお金儲けできればいいというのではなく、ファンや地域の方、応援してくださる皆さまが我々に期待していることは勝敗以上の部分にも多くあって、それを、バスケットボールを通じて表現し続けることが我々プロの使命だと思っています。
多くの方が死や絶望を経験してなお、大きな使命を持って生活、仕事をしているのを目の当たりにしてきて、自分がちっぽけに感じましたし、目の前の勝った負けたに一喜一憂することは本当に小さいことだと感じています。勝敗以上のことを伝え続けることが大事ですし、そのような形で、震災から今までの経験や考えてきたことが今の自分の芯の部分に根付いているんだと思います。
与那嶺翼キングスU18ヘッドコーチ コメント
―――自分に何ができるのかわからなかった
東日本大震災が起き、bjリーグが中断して選手間でもどうしたら良いのか、何ができるのかわからない状況が続いていました。キングスとして本当に微力だったとは思いますが、ショッピングモールでの募金活動を行い、心の底から募金の協力へ声かけしたこと、本当にそれくらいしかできなかったことを覚えています。
その後、島根とのアウェー戦でリーグ戦が再開し、「この状況で自分達は本当にバスケットボールをしていて良いのか」という不安を抱えながらロッカーからコートに出ました。そこには会場を埋め尽くす超満員のお客様がいて、こういう状況でもこれだけの方が見にきてくれているということ、それこそが自分達の存在意義でもあるし、来てくださった方に何か届けたいとい事を強く意識してプレーしたことを今でも鮮明に覚えています。試合自体は1勝1敗でしたが、結果以上にバスケットボールを出来たことに本当に感謝しました。そして、強い気持ちを持ってプレーすることが、活力や希望を届けることができるプロ選手としての唯一の手段だと、チーム全員が共通の意識を持って戦っていました。
全力でバスケットボールをプレーすること、そしてコート上で絶対に気を抜いたプレーをしない、そういう思いをこの時に強く誓いました。少しでも多くの方に元気を届けるんだ、という意志で現役中はコートに立ち続けました。
―――志村選手の加入
特別措置で仙台から志村選手が加入し、個人的に憧れの存在でもあった志村さんと一緒にプレーして学ぶべきことが多くありました。同じポジションでしたし意識する部分もありましたが、リーダーシップという部分は彼に教えてもらってと今でも感じています。彼も仙台から加入して、計り知れないほどの様々な思いを胸の内に秘めプレーしていたと思います。ただ、彼の口から出てくるのはマイナスな言葉ではなく「東北を元気にしたい」という言葉で、そういう姿勢が本当に人として尊敬していますし、キングスの選手たちの東北や被災地に対しての意識が大きく変化したのは彼の言動のおかげだと思います。
―――自身も岩手ビッグブルズでプレー
2013年から2015年までの2シーズンを岩手ビッグブルズでプレーしていましたが、被災地に訪れたりや被災に遭われた方の話を聞いたりして、「バスケットボールができること、生きることは当たり前じゃない」ということに本当に気付かされました。当時の岩手は桶谷ヘッドコーチが指揮を取っていて、「自分たちができること、伝えていけることを全力でやろう」と常々口にしてチームに浸透させていました。沖縄に帰ってきた今でも何事も当たり前じゃないという考えは残っていますし、その瞬間を全力で過ごせるように意識しています。
―――岩手での出会い
個人的な話になりますが、岩手時代に暮らしていたアパートの住人の方と知り合う機会がありました。その方も被災に遭われ、家族と父親一緒に沿岸の大槌町から内陸の盛岡市に移り住んでいる状況でした。挨拶や会話をしていくなかで岩手ビッグブルズのプレーヤーということを伝えると、その方はチーム名すら知らなかったようで、そのきっかけで一度見にきていただきました。その試合後に彼から「ここには明日への活力が溢れている」と伝えられてことを覚えています。そこから次第に週末では会場でお会いすることも増え、いつの間にかホームゲームの冠スポンサーとして、気がつけば岩手ビッグブルズの取締役となっていました。それが今の取締役でもある三浦崇さんとの出会いでした。
三浦さんとの出会いもスポーツの力で繋がった縁だと思いますし、これがプロバスケットボール選手としてプレーし続ける存在意義だと感じました。三浦さんの「この活力が溢れている場所をより多くの人に知ってもらい元気になってもらう」という思いから冠スポンサーを始めた姿勢は、尊敬と共に本当に素晴らしい人だと感じています。今でも交流がある方々のうちの1人です。
―――今、子どもたちを指導する側となって
この時期になると毎年色々考えさせられます。コーチとして在籍したのも併せ3年岩手に住んでいましたが、ほんの少しだけ知っているだけ。ただ、他の人よりは岩手のことを知っていること、考えた時間が長いと思っています。だからこそ、この経験を子どもたちに伝えていくことが我々大人の役目だと感じています。スクールの子どもたちには全ての学年ではないですが、震災があったことや自分が岩手で活動していたこと、当時の状況を可能な限り伝えるようにしています。その上で、「みんなが今バスケットボールをできていることは当たり前じゃないんだよ」ということを毎年伝えるようにしています。
バスケットボール以外のことも伝えられるような考えになれたのも、岩手で生活して現地の方の声を聞いて、被災地を見てきたからこそだと思いますし、それを伝えていく責任が私にはあると思っています。